芸舞妓とWSS、極端だった週末

歌舞伎・芸舞妓

いやー、充実した週末となりました。
世間はまだマンボウだけど私個人としては自粛が終了し、楽しみにしていた京都五花街合同公演「早春夢舞台」に行ってきました。

南座は入口の感じからしてもう、コテコテ。
内容ももちろん和のコテコテ、極みでしたよ。念願の「芸妓さん舞妓さん三昧」でしたし。偏っている事を承知でとある事を思いまして、そのあたり次の記事に書きますね。
今回は和のコテコテ舞台を拝んだ翌日に鑑賞した映画「ウエスト・サイド・ストーリー(WSS)」について記事にしてみます。
ホンマねぇ・・・両極端でした。
土日で「日本人にしか出来ない世界」と「日本人には出来ない世界」に触れたなぁって心底思ったんです。

WSS鑑賞のきっかけはこちらの記事にいただいたコメント。基本的に映画はもったいなく感じる私ですが、読者さん達からの「WSSオススメだよ!」な声にあっという間に気が変わりました。ありがとうございました。

余談ですが・・・

うちの娘はめっちゃ、パパっ子ですw

さて、WSSの感想。
読者さんからいただいていた

「体に流れてるリズムは違うなとまざまざと見せつけられた映画でした」

は、まんま、その通りでしたねぇ。
日本でもWSSって舞台化されているし、その気になれば日本で映画化する事だって出来るかもしれない。だけどこの映画のような迫力に仕上げる事は出来ないでしょう。
予算や技術の問題じゃなくてね、日本人ではどれほど頑張ってもWSSの世界を表現するにあたり限界があるんですよ。
日本人以外には芸舞妓や歌舞伎の世界を表現する事が難しいのとおんなじというか。
DNAが違いすぎるんですね。

WSSのベース「ロミオとジュリエット」はイタリアで同じ民族が争っておりいわば宝塚市民と西宮市民、あるいは練馬区民と豊島区民の小競り合いみたいなストーリー。それがWSSではアレンジによって舞台がアメリカとなりコケイジャン(白人)とヒスパニックの民族問題が根っこになっています。アジア人の入り込む隙間なんてなくて当然といえば当然。

コケイジャン軍団もスンバラシイ歌唱にダンスでしたが、ヒスパニック軍団のそれはまさに「身体に流れているリズムが違う」でしたねぇ。

私は宝塚版のWSSを観ていないんですが、技術面や表現力で映画版とまともに比較するとかなり不利だろうとは察します。
でもまともに比較する必要なんてないんですよね。映画版を観てあらためて、宝塚版が映像として残っていない(残っているとしても非公開)である事が悲しくなりましたよ。役替りのどちらも観たかったです。個人的には、愛月ひかるさんがWSSのベルナルドとロミジュリのティボルトどちらも演じたのが胸アツでした。

ただね・・・
ストーリーについてはロミジュリ同様、やっぱり、受け入れ難いんです。
どうにもこうにも、トニーがベルナルドを刺殺してしまうのが残念すぎるんですよ。ベルナルドがリフを手に掛けたところでストップしていればここまでの悲劇にはならなかったわけですから。
ヒスパニックのベルナルドは大切な妹マリアを、コケイジャンのトニーがなぐさみものにすると思って交際を断固反対していました。その気持ちは強固だったけれど、決闘でリフを殺してしまった時にもし、トニーがふたつの軍団の仲裁に入って自分を助けてくれていたらさすがに気持ちが変わったはず。トニーにとってはマリアへの愛が本物である事をベルナルドに証明する最大のチャンスだったんです。なのに、よりにもよってベルナルドを殺しちゃう。これ、絶対アカンでしょ。
しかもやってしまった事をマリアに「弾みで」と言い訳しちゃうし。
トニーはもともと暴力で刑務所に入っていたのに同じ過ちを繰り返したんですから、こんな男は仮にマリアと結婚をしていてもマリアの事を「弾みで」殴ったり、あるいはもっとひどい事をしたんじゃないですかね。一目惚れでああも燃え上がった恋や愛なんて絶対、長持ちしませんし。
マリアはマリアで、どんだけトニーが愛しいとはいえ大切な兄の命を奪ったのですからもっと冷静になる方が良かった。なのに落ち着くどころかより一層燃え上がり、結ばれてしまいました。表現は非常にマイルドで娘が見てもOKでしたが、道徳的にはどう考えてもNGすぎます。

めっちゃ有名だけど結局は、アホな若者達がエネルギーを有効活用出来ずにろくでもない事ばかりするストーリー。あの決闘がなくったって・・・トニーもベルナルドもリフもそう長生き出来ないか人生の殆どを刑務所ですごしていただろうし、トニーとマリアの恋愛は遅かれ早かれ破綻するでしょう。
やるせないストーリーだけど、それを十分に補いありあまるほどに音楽・ダンス・歌があまりにも超・素晴らしい。そんな映画のように私は思いました。

ロミジュリも音楽や歌が素晴らしいですもんね。
で、私、気付いたんです。
ロミジュリ同様に有名な演目である「理想の夫」をベースにしたはずの「ザ・ジェントル・ライアー」にピンとこなかったのは(感想の記事はこちら)、音楽や歌でのフォローが足りなかったからだと。
私は日本の庶民なんだから、オスカー・ワイルドの世界や19世紀のイギリス貴族の価値観なんてわからなくて当たり前。楽しむには気合いの入った音楽が歌が必要だったんですね。
これ、個人的には嬉しい気付きとなりました。

コメント

  1. こんちゃん より:

    関西の、たー様

    いつも楽しみに拝読しております。ライビュ専科の地方民です。

    たー様も、ウエストサイドストーリーをご覧になったのですね。子供が出来てからこういった映画を見ると、10代の主人公に感情移入しづらくて、親目線で見てしまいますね。もしもマリアが自分の娘だったら、とか、息子がトニーだったら、とか思うと・・・

    ブログ村の宝塚ブロガーさんで、「大感動しました!号泣!」といった感想の方もいて、お若い方なのかなあ?ソング&ダンスの技術に感動されたのかなあ?同じ作品を見ても、感じることは本当に人それぞれですね。

    サムネイルの「日本人にしかできない舞妓」と「日本人にはできないウエストサイドストーリー」って興味深い表現ですね。確かにプエルトリコ系方が踊るマンボには、赤道の太陽の輝きとか、彼らの汗の匂いも日本人とはだいぶ違うんだろうなあ、という説得力がありました。技術じゃないですね。アフリカのDNAに刻まれたリズムが、もう東洋人とは違うんでしょうね。

    宝塚では「女性がタキシードを着てワルツを踊り」ますが、これってウイーンの人が見たら

    「歌舞伎をオーストリアの女性が演じたら歌舞伎になるのか?」

    くらいとんでもないことをやっているのかもしれませんね。現代のウイーンの女性が皆ワルツを踊れるのかは知りませんが。

    • 関西の、たー 関西の、たー より:

      こんちゃんさん、アラフィーの私だってあのベランダのシーンには、ふたりの歌唱があんまりにも素晴らしくって思わず涙したんです。でも冷静になると建て付けが良いとは思えぬベランダを無理矢理よじ登るトニーに「危ないやん」なんて思ってしまいます。その点ロミジュリはハシゴを用意してくれているからロミオは安全ですねw

      若い子が終始感動しっぱなしになるのはわかるんですよ。若くない人でも、大感動して号泣したいならそうしたらいい。
      観客それぞれ好きに、いろいろ感じたらいいんですよ。必要なのは「バラバラで当然」と認める事くらいじゃないですか?これが出来ない人が少なくないようですけどね、特に宝塚ファンには。

      芸妓さん舞妓さんの舞台とWSSは本当に極端でした。日本舞踊や浪曲はもはや日本人にとっても難しい世界ではありますが、それでも何となくDNA的には受け入れている気がします。トシ取るほどに神社仏閣の良さも感じてきましたしね。
      私自身若い頃は欧米へのあこがれがすごく強くて向こうの文化をアゲアゲしていましたから、もし10代20代のうちにWSSを鑑賞したら向こう側へのあこがれを募らせて現地に行ってみたい!な気持ちになったかもしれません。でも実際はアラフィーになってからの鑑賞でしたので「向こうは向こう、こっちはこっち」と割り切ったというか。現地に行きたい気にもなりません。私は肌が弱いので、赤道の太陽の輝きなんて紫外線が多すぎて恐ろしいしねw

      ウィーン女性の皆がワルツを踊れるとは私は、思わないですね。日本人が皆、盆踊り出来るわけじゃないし。
      ただ日本人はオーストリアのミュージカルをすんなり受け入れたけれど、オーストリア人で歌舞伎や歌劇を受け入れる方はあまりいないかもしれませんね。いろいろ奇異に見えてしまいそう。
      それでも国内でそれなりに支持を得ているんですから、外国人への気遣いなんてしなくて良いと私は思います。

      いつもありがとうございます。
      今後もどうぞよろしくお願いいたします。

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